2008年06月02日

達磨の教え

自分の中の<仏心>目覚めよ

不立文字   <釈尊の教えは文字や言葉によらず

教外別伝   <人の心から心へ直接に伝わる>

直指人心   <己の心を深く見つめ>

見性成仏   <仏心に目覚めれば仏になれる>

この達磨の教えは 4句、16文字に簡潔に表されている

経典にたよらず、自分を見つめて仏性に目覚める

文明時代のものの豊かさに人は己を見失い自己の名利ばかりを追及しがち、

世界中で毎日何万人の子供達が死んでいく、だれが悪いのか、人の上に立つ人間のその質にゆだねられているからである、

人の質、小さな一粒種の人つくりがやがて、いく万の人の質を生み出す
自分の姿勢、生き様によって示す、行ではないか。

この意味は、人として生まれて、人として生きていく、自分が何者であるか、ダーマに生かされた人間としての価値をいかに感じることが、生きてる間に知る、見つける責任を今一度考えてみよう、そして行動しよう
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2007年06月20日

一族の長、長としての生き方、少林寺拳法は

本日本家の一族の長、おじさんが亡くなった、戦前戦後の激動の時代を生き抜き、沢山の兄弟の生活を支えて今日までの長い道のりを終えた、大往生である、

死んでしまっては何を言っても始まらないが、人としてどんな人生を送ってきたかが、残された人たちの心に残る、

ましてやその生き方、姿勢までも一族の鏡となる、子や孫の代までその心は伝わる、

先日の武専、開祖語録での講釈にその道を誤らず伝えよとあった、

教範に帰れと言う言葉を最近盛んに強調させておる、、武専等で

なぜかというと、最近の傾向では、支部の程度がだんだん、こう、辺境になるほど悪くなってきている、

もう、何が少林寺やら、空手やら、合気、やらわからん、第一先生がろくすっぽ教育をうけてない所、勉強しようともしないもんだから、中途半端なものになってしまう、

それで自分が教えないで適当に弟子に教えさせている、そんな道院長が増えてきているのである、これではね、少林寺拳法が本当に誤ってくるから、これはいけない、

わたしは組織の長として言い渡す、まず教範を十二分に読め、そしてその法を正しく伝えよ、

道場は拳法と言う家族のつながりを持っている、自分の大切な家族だから

自分の少林寺拳法という修行をもってして自分自身の姿勢生き方を、子や孫の時代まで伝えようではないか、

少林寺拳法は、己自身の生き様であるように

<48年あらはん 教範に原点を求めて、その他
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2007年04月12日

開祖法話

途中で腐っていく、よそ事ではないはずだ

看板出して技の切り売りをしたら相応の金になる。身内に向かって先生ヅラ面して威張れるようになる。で結局は、何もしないが口では偉そうなことをいう団体に、いつの間にかなってしまった。そして、そういう自分達の利権を守るために、おかしい、間違っていると思うことにも口をつぐむようになってしまった。私だけにしか、こういう大っぴらな痛い批判が言えないような組織、これはひどく危険な徴候だ。

 若い時にはましだった人や、初期の頃には何をするにも一生懸命だった組織が、途中でどんどん腐っていく。これは他人事、よそ事ではないはずだ。何度も言ってきたが、人類が核兵器で殺し合おうとしている時代に、殴り蹴飛ばす技のどこに価値がある。そんな技術をものにしたところで、「人間としての責任、良心、勇気」なぞ鍛えられるはずがない。少林寺に何のために集まっているのか、自分らはどんな存在なのか、たまには意識し考えてみろよ。

あらはん 1986 6月号
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2007年04月07日

拳法は布教の手段,目的ではない

初心に帰ろう

私達がこういう運動を始めて、今年で十九年になります。で、十九年前は、私が一人で、こんなことを考え、こんなことをやってきたのです。これが、十九年目の今日(こんにち)こうして今日ここに今いる諸君のような人達が共鳴して下さって、私と同じことを言い、同じことをして下さるように発展してきた。諸君のような立派な人達が、この運動に共鳴をして下さり、そうして、私と同じことを言い同じことをして下さるということに発展をしてきた。それは、やはりそれなりの理由があったんだと思います。このことを諸君がどの程度認識しておるか、実は私自身多少不安である。でこのことをひとつ言えば、どの程度まで認識しておるか、あー…実は私自身が多少…その…を…不安がある。

 というのは、未だに認識不足の道院長もちょいちょいおります。それから、門下生の中にでも、随分私の意を介してくれている人もあるんだけれども、私が私はたまたまこの少林寺拳法と称する技術を、布教の手段に使ったからして、使ったからって、その始めた動機も目的も理解しないで、ただ少林寺拳法の技だけを教えて、そうしてそれで足れりという人が、やっぱり中にはあるのです。で、私はこれをこの際、ま、徹底的にひとつ是正してもらいたい。

 今度の今諸君の手元にある新しい『教範』の第一頁には、このことを実は挙げておるわけです。要するに、今までの空手柔道やそれから剣道の先生のように技術を教えることが目的ではなく、人間をつくることが目的であったわけです。えー、大事な点ですから、私が読みながら解説をしていきたいと思います。

 ここに「少林寺建立の目的と金剛禅の成立」というのを第一頁に私が持ってきたのは、私が何を考え、何を目的としたかをにやろうとしたかということが、これがとにかく最初なんだ。これを理解せずして高段の技術だけをとやかく言うということは、これは、私達は金剛禅の同志でもなければ、指導者でもない、とまあ言いたいのです。

 でここで、まいろいろ書きましたし、その中で大事なことを、えー、これから読みますから、諸君も読んでくれてはおるだろうけども、分かっていただきたいと思う。


          あらはん 1982年9号より
posted by 九竜 at 17:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

生きてる間は負けたんじゃない

どんな困難にぶち当たっても、<七転び八起き>じゃなくて、
中国では、<九転び十起き>といってる

数字には意味を持たしてある

<九>と言うのは、最終、数字の終わりなんだ、次がない、
またゼロに返る、

七転び八起き>なんて言うのは、これはチョロこい、
ぜったいに死ぬまでは負けたんでないと言うのが、私の信念である

生きている間は大丈夫、生きてる間は負けたんじゃない
命あれば、どんなことがあったって、いつかは立ち直れるんだ
posted by 九竜 at 17:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

日常生活や人民の幸せにつがるか

私が主張しておるように、武道とかスポーツと言うものには限界がある。
それは、強くなるということには価値がある。
記録を更新することには価値がある。

しかしね、かりに百メートルを何秒かで泳いだって、イルカにはかなわないんだよ、

いいかね。船がひっくり返ったとき、
荒海の中でみんなが助かるということには全然つながらない。
わかるかね。
posted by 九竜 at 17:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月05日

半ば自己の幸せを、半ば他人の幸せを

自己を大事にしないという人間があったらおかしいのであって
、己がまず第一だ。

しかし、己がすべてではない。

相手があるのである。

半分でも相手のことでものを考えてあげる。
まして相手の幸せを願うようになったら、
戦争なんかいっぺんでなくなる。

というより起きるはずがない。

もちろん、夫婦の争いもなけれ
ば仲間同士の撃ち合いもないはずです

そういうものを作るには武道ではダメなのです。

少林寺の最大の眼目である人作りの行それは

半ば自己の幸せを
   半ば他人の幸せを

少林寺の壁画を見た私のインスピレーションがそれを教えてくれた
posted by 九竜 at 19:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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